2012年4月8日日曜日

三蔵経の中の一粒の精髄


(三蔵の中のダイヤモンド)より

http://space.geocities.jp/tammashart/kouhuku/sanzou.html
リンク切れの場合は、"三蔵の中のダイヤモンド"で検索して下さい。


何も分からず信じている人は、三蔵の中のどのお経も、全て同じ価値があると言います。
外側の麻袋や包装紙や紐類、大小様々な小箱や道具までダイヤモンドだと言います。

これは間違っています。
滅苦のために重要な部分、ダイヤモンドだけを仏教の要旨とするべきです。

しかし仏教の要旨は沢山あります。
聖諦と言い、
アッサジカターと言い、
縁起と言い、
タターター(真如)、
或いは空と言い、

全て仏教の核心と言えます。
しかし、
それは、学習の核心だったり、実践の核心だったり、成果の核心だったりします。

では、学習と実践と成果のすべての面から見た精髄とは何でしょうか。
それは、

Sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā
サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ
何物も、私、私の物と執着するべきでは無い、と言うブッダの言葉です。
これが三蔵の中のたった一粒のダイヤモンドです。
それが拡大されて色んな形になりました。

ブッダは
「誰も私は、私の、という事に拘(こだわ)るべきでは無い、と言う言葉を聞いた人は、仏教の全てを聞いた人であり、
執着しない為に実践する人は、仏教の全ての実践をする人であり、
執着しない実践の結果を受け取る人は、仏教の全ての実践の結果を受け取る人である」
と言っています。

だから
この項目は、学習、実践、成果のどの観点から見ても、仏教の要旨なのです。
どうぞ、この仏教の全てを集約したダイヤモンドである言葉を、確りと受け取って下さい。

八万四千あると言われるのは、後世の人の仮定です。
極言すれば、
ダイヤモンドは、この一粒しかありません。
これが色んな話に拡大して、ダイヤモンドの形や状態、価値などから、何十何百というダイヤの掘り出し方の話まで述べられる様になりました。